僕は絵を描くのが好きじゃない。
そのことに気づいたのは高二の夏。
特別なきっかけがあったわけでもない。
ただ、小さな頃から絵が上手って褒められて
その度に胸に広がるあたたかい気持ちを絵が好きな気持ちだと勘違いしていただけだった。
"絵を描くことではなく、褒められたり、誰かに喜ばれたりするのが好き"
ソレ を知った僕は必死にその気持ちに蓋をした。
認めてしまったら、自分が何者でもなくなってしまう気がしたから。
実際、僕が何者でもないって突きつけられたのは翌年の春。
スマホの画面に映る“不合格”の文字を見た時だった。
受験期、キャンバスに向かうたびに
「絵」に対する負の感情がちらつくのが耐えられなかった。
好きじゃないものを無理に続ける虚しさから逃げたくて、ただ遊んでばかり、、
だから結果はわかりきっていた。
それでも当時の僕はどこかで期待してた。
特別だったら何もしなくても選んでもらえるだろうって。
厨二病のような考えだけど本気でそう信じていた。
願ってた。
それからのことは、長くなるから簡単に振り返るだけにする。
絵を辞めた僕は、沢山の出会い、別れを経験した。
沖縄の海を眺め、オーストラリアの荒路地を歩き
自分が本当にしたい事ってなんだろうってひたすら考えた。
さまざまな国、さまざまな人の価値観に触れる中で
アートは誰のものでもなく、「自由」そのものだと知ることができた。
気づくきっかけをくれたホームレスのおばあさんには今でも感謝している。
でも、自由が故に自分の進むべき道が分からなくなった。
人の数だけアートの価値観があり、間違いは無い、全部正解。
自由の中、選択の重さに縛られる。
そんな中、SNSで投稿した絵への反応やメッセージが僕の道標になってくれた。
「あなたの絵が大好きです。」
「辛い日々の中、この絵に心が救われた。」
そんなメッセージに触れるたび、 僕のアートはこれでいいんだと胸の奥に確かな光が灯った。
ふと気づく。
結局最初に書いたような "絵を描くことではなく、褒められたり、誰かに喜ばれたりするのが好き"
という価値観に戻ってしまっているのかもしれない。
高二の頃に憧れた、孤高のアーティスト像。
常人には理解できないような自分の世界を創り描く特別な存在に、僕はなれなかった。
それでもいい。
僕の絵が誰かの心に波紋を広げた。
好きと言ってくれる人がいた。
そのひとつひとつが僕にとって大きな意味を持ち、
僕は「絵」を好きになれた。